JR阪和線の和泉砂川駅の近くにあった悲劇の遊園地とは?

JR阪和線は、天王寺駅と和歌山駅を結ぶ鉄道です。

大阪の中心部から和歌山の市街地まで、南海本線の少し東側を並走しています。

そのJR阪和線の中に、和泉砂川という駅があります。

大阪市民からすると、だいぶ南のほうにある印象です。

赤い屋根の駅舎が特徴的で、近くには静かな住宅街が広がっています。

私も何度か訪れたことがあります。

その和泉砂川駅から少しだけ東に歩いた場所に小さなロータリーがあります。

三叉路の中心にある古いコンクリートの土台の上に、木が1本だけ立っています。

何かを訴えかけているような…。

実は、このロータリー、かつて重要な役割を果たしていた痕跡だったのです。

砂川奇勝とは?

「和泉砂川」という駅の名前。

「和泉」は、ご存知の通り、昔の大阪南部の地名です。

では「砂川」とは一体どういう意味があるのでしょう?

昔、この付近に、砂の川のような渓谷があったのでしょうか?

そうなんです。

昔、この地域には、大きな渓谷があったのです。

その名は「砂川奇勝」

砂川奇勝は有名な観光地で、世界遺産級の壮大な渓谷だったようです。

現在も、壮大な渓谷の一部(白い砂地や渓谷の一部)は、公園のところどころに跡を見ることができます。

一度、公園の周辺を散歩していただければと思います。

砂川遊園とは?

JR阪和線は国鉄化される前、阪和電気鉄道(阪和電鉄)でした。

阪和電鉄は、この壮大な砂川奇勝を活用し、乗客を増やそうと画策しました。

当時、他の鉄道会社も同様の試みを企画していたようです。

・阪急の宝塚ファミリーランド
・阪神の甲子園阪神パーク
・南海のみさき公園、さやま遊園
・近鉄の生駒山上遊園、あやめ池遊園
・京阪のひらパー

現在はひらパーと生駒山上遊園だけになってしまいましたが…。

阪和電鉄は、砂川奇勝とセットで遊園地をつくることで、乗客の誘致を試みました。

その遊園地の名前は「砂川遊園」

1935年(昭和10年)にオープンしました。

近くには、山中渓温泉もあったので、一帯を絡めて、宝塚を夢見たようです。

砂川遊園には、池の上のボートであるとか、子供向けの遊具であるとか、当時、最先端の技術を駆使していました。

遊園地の中には、美しい花畑や遊園地特有のロータリーが…。

しかし、この砂川奇勝と砂川遊園が一体となった人気の観光地は長くは続きませんでした。

砂川奇勝・砂川遊園の末路…

砂川遊園は、10年も経たない中、閉園となりました。

いつ閉園したのか、なぜ閉園したのか、正しい情報は残されていないとのことですが…

当時の日本は戦争中でした。

一大観光地を夢見た大事業でしたが、戦争とタイミングが重なってしまい閉園を余儀なくされたようです。

その後、戦時中の後半に、阪和電鉄は国有化され、JR阪和線へ。

砂川奇勝・砂川遊園の賑やかな光景は、戦時中の食糧難という事情から、いも畑へと変化を遂げたようです。

その後の高度経済成長を経て、一体は住宅街へ。

このような歴史を経て、砂川奇勝・砂川遊園という一大観光地は姿を消しました。

不運・悲劇の観光地とも言われています。

もし、戦争がなければ…

もし、戦後の経済成長時に、一大観光地を保存しておけば…

今頃、和泉砂川駅の周辺は、全く別の風景になっていたのかもしれません。

冒頭に紹介した和泉砂川駅の近くのロータリー。

このロータリーは砂川遊園の遺構です。

すべての歴史を見てきているのです。

古いコンクリートは、長い歴史をかけて、我々に、何かを訴えかけているのでしょうか。